〇〇のようなもの。
先日のブログで、他繊維に形状を模したことで風合い向上や価値向上につながる訴求が手段としてあることにちらっと触れた。
特にポリエステルは金型や後加工で変化のバリエーションが多いから、リネンやウール、コットンに似せた『〇〇ライクポリエステル』なるものが結構ある。何を隠そう、僕も今きているスーツは『ウールライクポリエステル』の生地で作られたものである。
ウールに見えるからこれを買ったかと聞かれたら答えはNOだ。どこからどう見ても繊維ポリス的にはポリエステルに見える。
なんなら学ランもポリエステルだった。同級生のお金持ちは「早く注文しないとウールのがなくなっちゃうよ」なんて言ってたのを思い出した。同じ話を母にしたら「オメにそのんちげぇがわかろうか」と一蹴された記憶も同時に蘇った。お母さん、今の僕なら、わかります。
繊維、糸でこのような訴求があるのは全く問題ないと思う。いやむしろ、「〇〇のようだ!」と思う人だっているだろう。実際にイージーケアになった〇〇のようなものたちはたくさん市場で活躍している。これはこれで良いことなのだと思う。
先日、とある会話の中で「そもそもいい原料がどんなものかわからない」という話題になって、触ったり見たりしても原料自体の良さがわからない人たちも多くなったのだと実感した。良い悪いの話ではない。この事実を見落とすと、繊維川上戦士たちはずっとズレ続けてしまう危険性だってある。
僕は丸編み屋なので、丸編みのわかりやすいところでいくと、吊り編みと高速シンカーとの違いがわかるか?みたいなところだと思う。最近は文書が長くなりがちなので過去のブログを貼っておく。
ただこの手法、先日も書いた通り、又聞きが重なるとどこかで重要な部分が抜け落ちる可能性もないわけではない。そしてもはや実際に正しい情報を置き去りにして、言葉とモノが乖離していくことも想像される。
生地屋でさえこういうこともある。
『〇〇のように見える』はそのもの自体を忘れてしまわせる、そんな危険性を感じた関西国際空港のロビーでの話。
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