正しいものはなんなのか。
それがこの胸にわかるまで。
最近、というか今年か、インターネットはすごい、色々な人の意見、及び様々な人そのものと出会わせてくれた。
特に先月今月は、僕史上稀に見るアポイントの多さで、たくさんの方々とご面談させていただいた。多くの出会いに感謝している。
先日、今年最後の産地の学校の講義を終えて、その時に受講者の方から「正しいものを選ぶにはどうしたらよいのか?」という疑問を頂戴した。その場できちんとした回答が出来た自信がないので、ここで僕の考えを記しておこうと思う。
「正しいもの」とは、この時の文脈から、昨今の『サスティナブル』に関して、各社真剣な取り組みを公表している中で、やはりどうしても表面上の商利用として謳っている人たちが散見されるのだが、その真贋を見極めるにはどうしたら良いのか?という内容であったと思う。
まず、何をもって「正しい」とするかは、各個人のものさしに依存するので、僕が人に言える解は、持っていない。逃げのような回答かもしれないけれど、事実そうとしか言いようがない。
おそらく彼らの期待する『サスティナブル』における「正しさ」というのは、環境負荷が少ないこと、人畜無害であること、人道的であること、というのが大前提守られていて、その崇高な行いの上に生み出された商品を購入することで社会貢献をしたい、というものだろうと勝手に解釈している。(違っていたら反論など絶賛受付中)
中長期的に見れば、その性善説で経済全体が動けば、素晴らしいことだと僕も思う。だからそういった取り組みに対して特に批判も否定もしないし、どんどんと進めてもらえたらいいと思う。そしてゆくゆくは僕自身、そういった取り組みの核になっていけたら良いなとも思う。
思うのだが、これら崇高な思いで履行されている「正しい行い」は、経済的にみても、大きな会社が一気にドンっとやって初めて意味がある。
個人レベルの意思が大きなうねりになって社会を動かしていくストーリーはとてもドラマティックだけど、実際、目先の収支で動く人が多い中、高コストになってしまう「正しいもの」を消費することに、果たして抵抗なく移行していけるのか?という疑問が残る。
改善するにはまず、所得を底上げしていくのが良いとされる所見を発表している研究者がいらっしゃる中、先行き不透明なご時世、内部留保を減らして給与を大きく引き上げる英断ができる経営者は少ない。
この経営者の考え方が「卑しい」のならば、その会社に属している社員は、仮に会社の収支が傾いても給与がいつもと変わらずに振り込まれることに対して、財源の確保に安定性があると言う意味ではそれもまた「正しい」のではないだろうか。
これは卵が先かニワトリが先か的な話になり、現状リアリティに欠ける。思いが先行して、現行の消費を否定することで何かしらの満足を得ているに過ぎないように見えて仕方がないのだ。だから、現行を比較して自身の優位性を持たせている「正しいもの」には、僕は常に懐疑的である。
これは少し前に書いたやつだけど、結局はこういう思いから動き出す人のエネルギーは、社会の最適化に繋がるまで非常に大きなチカラを借りなければならず、目下協力を得られるであろう人たちの善意の元、初めてカタチになっていく様は、果たしてどちらが助けられているのだろうかと首を傾げてしまうものが世の中には余りにも多すぎる。
そしてその時チカラを貸してくれた人たちにとっては、ほとんど収益性のない、ボランティアになってしまう場合が多く、これを経済活動として継続していくのは困難と判断されてしまっても仕方のないことだろう。
以上のことから、僕は「正しいもの」が何かを人にすすめることができない。
僕は常に、継続性のある収益も、人道的な取り組みも意識はしているが、お客さんにとって、求められたものを作り出す時、それが環境負荷を軽減しているとは胸を張って言えない。全てを満たすというのは、とても難しいことだ。
いつものことながら脱線して戻れない。もう出発するので今日はここまで。
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