いいもの。

いいものとは何か。これはものづくりに関わる人たちにとって永遠のテーマである。と、思う。たぶん。


僕はかつて、衣料品における日本のものづくりを知りたくて、いわゆるJ∞ほにゃらら認定系の素材やらなんやらを駆使した洋服を結構買って着用してた時期がある。まだサラリーマンで、安月給の時になけなしの小遣いを叩いて大手セレクトショップのオリジナルにどこそこの何それが使われたと聞けば試しに買ってみたりした。


なぜなら自分たちも国産生地メーカーだったし、自分たちが作る生地はそれはもう、他所が勝てるわけないくらいに思ってたから、さぞかし着てみたらイケているに違いないという思いから、自社生地使用の服も試したりした。ちゃんと買って。えらい。


話は早速脱線するが(先に申告スタイル)、売上を安定化させようと思うと、コレクションブランドの展示会商品より、セレクトオリジナルの期中企画にハマった方が数字になるので結構生地メーカーはそこを狙って頑張りがち。

で、セレオリはベーシックな形のアイテムが多かったりするので、割と万人ウケしやすいというか、マスというか、良くも悪くも邪魔しないコーディネートになりがちだったりしたりしなかったり。

故に巷で人気のブランドにセレクトショップの名前が上がるとモヤるのは僕だけではないはず。ブランドとは。


話を戻すと、そういった類の『日本製!!』みたいな素材使いおよび縫製で作られた見た目は普通の服を色々と買って着てみた。


結論、まぁいいものなんだろうなってのはわかった。でもわかったのは、もしかしたら僕が繊維人だからかもしれない。微細な繊維の光沢感や、表情のある生地面など、普段商いのネタとして提案している生地の『良いところ』を感じることができるのは、繊維業界内で積み上げられた業界内での価値観を持っているからだろう。


以前このブログでも書いた以下リンクの衝撃の日以来、僕は客観するということを覚えた。

この日を境に考え方の幅が広くなり、結果的に自分が『いいもの』と主観で思い込むものがなくなった。これが良いことなのか悪いことなのかはわからない。好き嫌いはある。『いいもの』だという概念がなくなった。いや正確にいうと個人的にはあるけど、それを誰にでも当てはめられるという考え方がなくなった、が正しいか。


もちろん主観で突っ走って周りを巻き込んで大きくなっていく時もある。それは本当にすごいことだけど、たまたまお客様の求めるものがそれだったというだけの可能性もあるので、常にそのやり方で売れていくかどうかは博打に近い。

参考になる訴求方法の素材屋さんは結構ある。それがそのまま服のブランドになってちゃんとファンをつけている例もある。その周りには同じやり方をしようとして儚くも力尽きた死屍累々の素材屋さんブランドがある。


日本の繊維関係各社が売上をどうやって伸ばすかという戦略の中で、日本製云々を旗印に主観的な『いいもの』をブランド化して売っていく様子は、僕にとっては時に利己的に感じてしまい購入意欲を削がれることが多い。その背景で作られた洋服を纏う理由が見つからなくなる。産業のためという感情はあれど、自分のコーディネートにその服は合わないのに、安くない金額を出して着ない物を買うかを冷静に考えれば、ニコニコして「良いですよね」というのが精一杯だったりする。

もちろんそういうものをちゃんと『いいもの』と理解して買っていく人もたくさんいると思う。だから主観的な『いいもの』発信を否定するわけじゃない。あくまで僕は、その裏にある金銭的問題なども孕みつつ、思いつく限りを詰め込んだ洋服が僕および万人にとって『いいもの』かどうかはわからないだけである。

刺さる人はいるとは思う。そこを狙ってやってくならそれでもいいと思う。

でも継続するにも売れていく必要がある。売れていくにはやはり客観的にみて利他の要素がある『いいもの』をきちんと発信していくことが大事なんじゃないかなって思う。

その時に盛りすぎて誇大広告にならないように各社気をつけて頑張っていければ良い方向に行くかもなんて勝手に思いながら、今日も僕はクライアントワークで楽しい日々を送らせてもらっている。


いいものってなんだろうね。

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