雑。

人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのだろうか。

僕がこの業界に入って、繊維産地に対する仕事の回帰〜離脱サイクルはおそらく二度目かと思われる。


僕の入隊時期がリーマンショック前、生産もまだまだ国外へ離脱サイクルの頃だったので、序盤こそ少量生産でクオリティにこだわった先の仕事は嫌がられたが、リーマン後、それくらいしか市場に商売がないと感じた工業はぼちぼち付き合ってくれるようになった。

景気の底打ち感が出て、業界全体の水準も下落から横這いに推移し出した頃、資金難で手仕舞いする工業が出てきた。業界内からは嘆く声も聞かれたが、そもそも工業は実需ベースで稼働していないと死ぬ産業である。だからこそ、やるべきことというのはクリアなのだが。

そして一旦そのタイミングでふるいにかけられ、生き残った工業へ生産が集中することになる。すると底のタイミングで仕掛けた丁寧な対応サービスなどがおざなりになり、本業の工業が受け身でも仕事が切れない状況になる。


ほっといても仕事があれば、仕事を選ぶ受託者が出てくる。いや、仕事を選ぶこと自体は悪いことではない、全く正しい。が、苦しい時期でも、細々でも、仕事を共にしてきた面々を蹴散らし、キャパシティを抑えることができる人たちが存在する。彼らは比較的楽な仕事を大きな数で勝負してくる。

ビジネスは弱肉強食だ。文句は言えない。自分のチカラのなさを嘆きつつ、しかししっかりと自分の足で立たなければならない。

ただ一点憎むべきことがあるとするならば、その蹴散らした人たちはおそらく、状況が変わればあっけなくその工業を見捨てることは容易い。そしてそれも世の常として粛々と次の『仕入先』と富を築いていく。そこに人の血は関係ない。だってビジネスだから。


比較的楽な仕事で数をこなしてきたことに慣れ切った工業は、見放された後、旧知の先へ改めて縋ろうとする。すると彼らの仕事はとてもじゃないけど割りに合わないと感じるほど面倒で、手間を要することに気づく。しかし、市場にそれしか商売がないと悟れば、またそこから始まる日本製伝説を信じて自分たちのものづくり信念を語り出し、仕事を受ける土壌を整えていく。そんなものありもしないのに。


やがてスーパーサイクルが訪れる。世界はいつだって、生き残るべきものたちを選んでいるかのように。

今回はコロナショックとロシアウクライナショックのダブルパンチだ。じわじわと減速してきた国内生産にも生き残った強者たちには一日の長として矜持がある。彼らのクオリティはおそらく、素晴らしいものに仕上がっているはずだ。

そこへまた大資本が数の暴力で蹴散らしにくる。これ自体、選択権はそれぞれの経営者にあるのだから文句の言いようがない。


願わくは、そんな状況であっても、苦しい時期を共に乗り越えてきた仲間の仕事は丁寧にやってあげてもらいたい。そしてまた来るそんなに遠くない未来、大資本が離脱する頃、あん時の判断は間違ってなかったとお互いに笑って話せる日が来ることを望んでいる。

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