非を認める強さ。
仕事における言葉のやりとりは、実務遂行の上で非常に大切だ。
最近は言った言わないを避けるため、メールなど書面で残すことが当たり前になってきた。これは意思疎通の齟齬がないようにするためや、責任の所在を明らかにするためにも有効であるからして、昔ながらの繊維戦士たちからすると面倒な部分ではあるが、まぁ仕事と考えれば普通に当たり前のことなので、逆に昔はどれだけ相手の言葉の信用度があったかを思い知らされる。
とはいえ、現場はタイムイズマネーなので、今起こっていることを今解決するために電話で確認が入ることは多い。というか、金谷さんなんてほとんど一日中現場と電話してる。
作業などをしてくれている現場からすると、依頼主担当が電話にでないというのは凄まじいストレスだ。今まさにしかかっている作業途中で、依頼内容に不備があってその確認を取るために電話してるのに、電話にでないで作業時間にズレが生じても納期は変わらず守れとか、正気の沙汰か?と憤る気持ちは痛いほどわかる。
話がそれた。脱線はもはや自意識とは別の次元で起こっていると考えている。
口頭でのやりとりというのは非常に難しい。と、思う。いやうそ、全然思わない。
相手の機嫌をいちいち意識しないで良いのならば、職務上の口頭のやりとりなんて、事柄に対してほとんどの場合『YES』か『NO』で解決する。
むしろ社会人として必須スキルとされる敬語を丁寧に使おうとするあまり、内容がボケたメールを作文するのに時間がかかってしまうくらいなら、電話でソッコー「じゃあそれで」とか「いや違う、こう」とかで済むからこれこそ生産性の高まりではないか。
メールで丁寧な作文に苦心し割いた時間を「仕事した」と思ってるなら、その時間でもっとできたことあったのではないか?という目線を常に持って生きていきたい。
一方で、書面に残らないやりとりだからこそ、結果が思ってたのと違っても、責任の所在は闇の彼方に葬り去ることができてしまう。
そして事の真相を突き止めたくても「自分は伝えたつもり。理解してもらえたと思っていた。相手が悪かった。」という正義で守ることもできてしまう。これはとてもまずい。
テキストに残す場合も同じだが、伝えたつもりで相手も分かったと思ってたけど結果が違った、というのは、結果だけみると伝わってないし相手は分かってない。ここを詰めていかないと、自分はやることやったのに相手が悪いという思考から抜け出せない。つまり同じミスが何度も起こる。些細なことだと思っていたとしても、これが後々大きなことになってしまうこともある。
言葉をかわすというのは厄介なことに、感情も一緒についてくる。
この世に生まれ落ちてからこの日まで様々な人生経験を積んできた結果、自分の評価を落とさない方法という保身術は身についてしまうのだろう。伝えたつもりで相手も分かったと思ったことが、相手の理解力不足ということにして結果が思ってたんと違っても、自分は悪くないから問題ないと思い込むために、実際のやりとり事柄自体を報告しないということさえできてしまう。
なぜ後々面倒なことになるのに、しょうもない自己保身でホウレンソウを怠るのか。
それは「言いにくい」空気を作ってしまっている側にも問題があるのだろう。
その「言いにくい」空気は、言ったら怒られてしまうという想像からくる空気なのだろう。そして実際に、言ったら怒られるんだろうし。
怒られるとは、一体なんなのか。怒られたから何だというのか。怒られた先に起こりうる出来事を想像して恐れるのだろうか。では、恐れてしまうような、怒られた先に起こりうる出来事とはなんなのだろうか。
なんにせよ、結果が違ったのであれば一旦自分の伝え方に対して問題意識を持って非を認めるというのは、その怒られるだったり、怒られた先に起こりうるかもしれない出来事を想像して、なかなかできることではないのだろう。
まぁ怒るなっていう気持ちが一定数出てきそうな気もするけど、口頭とはいえ職務上のやりとりは金銭問題にだって発展する契約みたいな側面もある。だから書面にするのを推奨するんだろうけれども。
たぶんね、怒られないように隠そうとするから怒るんだよ。知らんけど。
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