明るく楽しく元気よく。

『明るく 楽しく 元気よく』少年野球やってた時の監督のモットーだった。

少年野球に入ったとき、超絶肥満児(体脂肪率40%)だった僕は、チームの足を引っ張る存在だったに違いない。走るの遅かった(100m22秒くらい)し。


嫌な思い出かと思いきや、少年野球は本当に楽しかった。どんくさかったが、それを超越する『みんなで野球をやる楽しさ』があった。

6年生の時、ところてん式にレギュラーになれた僕は少し勘違いしていた、いやだいぶ調子に乗っていた。4年生で入ってきた、これまた肥満児の後輩に対してキツくあたった時、監督から「オメェは何様だ!グランド走っとけ!」とめっちゃ怒られた。練習が終わって整列して挨拶する場面でも戻ることを許されず、しばらく走らされた。

実力でレギュラーになったというよりは、年功序列だったのに、初めて野球をやってみようと思った後輩に対してどんくささに苛立った僕は本当に何様だったのだろう。自分だって肥満児のクセに。

最後に後輩に謝ることで許されたわけだが、その時に「オメェがそんなこと言うたら、あいつ野球やりたくねぇなるだろ」と言った監督の一言は忘れない。


監督はバントの指示を出すことはあまりなかった。「そんなもん、思い通りに考えて打った方がおもしれーだろ」と。これはバントを否定するものではない、選手が適宜判断してバントした方がいいとゲームを組み立てることの方がおもしろいだろ、という解釈だ。

そういうわけでチームは雰囲気がよく、そして強かった。(佐渡では)


中学でも野球部に自然と入った(生徒が少なすぎて部活は必須で選択肢がなかった)。

中学では『勝つ野球』を会得するためのそれはそれはストイックな練習方法だった記憶がある。あれはあれで、人生に役立つ経験だったと思うが、野球の楽しさってのは少年野球の時のそれとは比べものにならないくらい低かった。なんなら嫌だった。から、高校進学と共に野球部に行くことをやめた。

指導が悪かったわけではない。急に上下関係で線を引かれた体育会系独特の先輩絶対主義みたいな空気が嫌だった。上級生が嫌いだったわけじゃない。なんならすごく仲良くしてもらってたけど、全体的に漂う空気感はなかったわけじゃない。


植え付けられた上下関係は社会人になって非常に役に立ったが、一方で筋の通らない連中でも自分が上という謎パワーをきかせてくる人たちに対しては、意味がわからなかったのでフラストレーションは溜まっていった。

前職時代の経営者の一言「金に頭を下げてくれ」だったり、仲の良い同業者の「商売とったらこっちのもんなんだからしょーもないこと言うても気にせんでええねん」とか、謎パワー使いの理不尽連中に対する方法としてはまさにその通りだが、僕は気持ちを逃がすことに関してことのほか不器用なので、頭によぎるのは監督の「オメェは何様だ」である。そんなつまらん圧力かけてメンタル削ぐようなことして業界発展すると思うのか真剣に聞いてみたい。そして心の中ではチャゲアスの『YAH YAH YAH』が流れてる。傷付けられたら牙をむけ、自分を慰むために。一体なんの話だ。


前職時代も今も、同僚からは「仕事楽しそうにやるよね」って言われることが多い。そりゃ楽しいことばっかじゃないけど、悲壮感漂った状態でやってたらお客様も仕入先様もなんか嫌じゃないか?と思う。自論だけど。

なんというか、かわいそうだから助けてあげなきゃいけないっていうボーナスタイムは、僕においてはとうの昔に終わっている。たぶん脱肥満した頃。


あの産地がやばいとか、後継が見つからないとか、取引先の悪癖がすごいとか、深刻な問題はこの繊維業界にたくさんある。現状に陥った責任を誰かに転嫁したくなる気持ちもすごくわかる。やむを得ない事情があったのかもしれない。そんな悲劇の中、手を差し伸べてくれる人もいるかもしれない。

でも『かわいそう』で集まる善意は麻薬的で、瞬間的に持ち直しても継続しない、と、僕は思ってる。もちろん先述の通り、当人の状況如何ではあるのでやむを得ない事情があっただろうから反論は認める。


ただね、明るく元気なやつが楽しそうにやってるところの方が、商いもいい循環になってるようにも思う。だからこれからも、たまに愚痴は出ることはあっても、明るく楽しく元気よくやっていきたいと思う。

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