今ならわかる話。

僕は性格が悪い。これはもう、直そうと努力してるけど、やっぱりまだ自分に対してそう思う。

↑これって、受け取る人によっては、「そんなもん、お前の立ち回り次第なんだから不徳の致すところ自業自得だよな」と思われても仕方がない。し、実際、自分に降りかかる厄介ごとは全て自業自得だと思っている。


話は変わるが、僕が前職にお世話になりだしたのは、専門学生時代にアルバイトとして通うようになってからだ。アルバイトを経て、卒業後に試用期間に入った。アルバイト時代は一体なんだったのか?まぁそれはいい。

今の日本社会的に、いわゆるブラック的な扱いのソレだったことに違いはないのだろうけれど、超ドライに考えれば、性善説を元にしたとしても、至極当然の扱いだったように思う。


労働時間を人生の切り売りと考えていたロックンローラー時代、身柄を拘束される分、給与は払われて当然だと思っていた。そして会社の奴隷となり、言われたことをこなすことで『頑張っている』と認められると思っていた。

そして当時の僕は、そういう社会に対する反骨精神を歌にしていた。


だが、時が進むにつれ、給料を上げてもらうために、いや、自分の好きなようにバンド活動をするために、どうしたら自由が利く働き方ができるか考えるようになった。なぜなら不満の声を不満としてあげるだけでは、状況は変わらなかったからだ。

これは経営者に問題があったからだろうか。もしかしたらそうかもしれない。

だとしても、経営者を、他人を変えることは、簡単な話ではない。


いろいろ世間に対してとりあえずムカついて怒っていたロッケンロー時代に、当時の上司に言われた一言は、めちゃくちゃ腹がたったし、納得出来たかと言われたら納得出来なかったけど、今なら少しだけわかる。

「お前は俺が言ったことの70%出来たから、まぁ合格やな」

内心は(は?)である。それは暗に(俺らがお前くらいの時は、1言われたら10返すのが当たり前だったからな)という時代錯誤マウントを取られたとしか感じなかったから。もしかしたら世の中には、そういうマウントをとることで自尊心を維持する輩もいるのかもしれない。が、仮にも僕の前職上司は師匠だとも公言している人なので、マウントではなく、愛のある一言だったに違いない。そう思いたい。


つまり、10言って7しか返せなかったら、お前はそれ以上にはなれないぞ、10返してようやく認められて、それ以上になって初めて超えた分だけの評価があるのだぞ、と。そう僕の中で脳内変換できたのは、たぶん上司の日頃の行いが良かったからであろう(何様


だから当時、僕のアルバイトからの試用期間という処置は、そういうことなんだろう。会社にとって、僕という人間に対しては、日当¥5,000は出せても、月給20万(当時の前職が専門学生に対するオファー)の価値はないということだ。

相対評価は、時にアイデンティティの否定をするかのような評価軸だが、一方で成果物に対してのものだと考えたら、プロセスなどどうでもよいのだ。結果が同じであれば、人は安い方を選ぶ。それだけのことだ。そしてそれが、人間のやりがいや心理状態を除けば、いわゆる『仕事』というものなのだろう。


楽しく心地よく仕事はしていきたい。できれば自分がやりたくないことを避けながら。でもそれは、自分自身がきちんと労働で還元できている場合にのみ許される主張なのだろう。つまりそれは、お値段以上の時にしか許されないものなのだろう。じゃなかったら、みんな安い物を求めて買い物をしにいかないでしょ。安くて同じ結果なら、そっちを買うという、なんとも普通の考え方なのではないか。だとしたら、代替えがきく仕事を、言われた分だけ、言われた通りにこなしただけでは、それ相応の対価しか与えられないのも納得のいく話ではないのか。


僕の棲むこの繊維製造工業界では、受託内容の作業をこなすことで対価を得る仕事が多い。その作業を同程度のクオリティで海外の方が安くできるのであれば仕事が流出するのは至極当然の話だ。ドラッグストアで120円の商品が100均で売ってたらそっちで買うのと同じ道理だ。

じゃ日本製の製造工業は何をするのか。

そこを改めて考えてみようじゃないか、この土日で。


あれ、なんの話だっけ。

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