やってる人、やってない人。

「頑張ってる」と誇示してくる人に対して、あぁ確かにやってるなぁと感心することが少ない。

「努力している」というのは人が決めることなので自分で言ったところで自分の立場がよくなることは、ほとんどない。

努力とは結果に対して敷かれた過程だと思ってるので、結果に対して相当の積み重ねをした場合、その結果に見合った努力を周りが評価するのではないだろうか。

「俺は結構やってるのに、、、」という人、そういうアピールなしで階段を駆け上がっていくあいつと自分は何が違うのか検証したことがあるだろうか。


会社員時代に僕が感じていたそういう周りにいた人たちに対する違和感。

社員への評価は当然成果に応じて大きくなっていく。

その相対評価は会社側に判断基準があり、会社や経営者がその社員に対して「お値段以上!」と思えばベースアップしていくし、然るべき役職にもつける。しかし「不足」と思えばベースアップは望めないし、いつまでも役務は与えられることはなく適所を探る為に部署移動などになっていく可能性もある。ある程度明確に数値化されているものではないので、自己評価に対して「不足」とされるのはある種の根性論を強要されていると思う人も多いのだろう。

大きい会社ならそれで人材再配置することである程度の活躍が見込める可能性はあるけど、僕がいた会社は地方の中小零細企業で少数精鋭だったので、相対評価の基準値は非常に高い成果を求められた。以前同ブログでも書いたように僕にとっては前職が社会の入り口だったので、これが当たり前だと思い、生き残る為には「ここまでやりました!」と言う努力アピールは無意味で全てが「結果」に対する評価だった。実にシンプルだ。僕にとってはこれはある意味やりやすかった。


しかし取引先などの人たちの中には、会社の評価システムに不満があったようで、売り上げ粗利に対して報酬の金額ベースで色々と聞いていると、まぁ妥当か、ちょっと多いんじゃない?って僕は思うくらいだったけど「俺はもっともらってもいい!」と憤慨されている人が結構いた。

会社も人もそれぞれだし、僕も前職一社しか知らないので世間を知らないと言われればその通りなのだが、その評価に対する受け側のリアクションは何かと比べて初めて生まれる感情なのではないかと不思議に思った。

そして成果を出せないのに過程をネタに愚痴を言っている人たちは何かこう、自己評価と相対評価にギャップがあるんだろうなと。で、そういう人に限ってかなりの確率で、評価に値するほどの努力はしてない。と、僕は話を聞いてて思う。


逆に好成績を残してバシバシ伸びてく人は国や会社や業界などのハコに関わらず自主的に動いては可能性を広げて評価も上がっていっている。これはおそらく例外なく。僕の出会った人たちをみてきた経験上。

運もあるとは思うけど、その分たくさんチャレンジしてるから確率的にも当然結果は出やすい。チャレンジの分母が違う。場数が違うと精度も圧倒的に変わってくる。そりゃ自然に成果が出る。評価は上がる。そして多分、思ったようにいかなかったことに対して検証もしてると思う。周りがどう評価しているかとかあんまり気にしてないし、自己評価も厳しめの人が多い。


今、会社を運営させてもらっていて思うのは、やはり期待値を超えて成果が出ない人に対して余剰に支払う報酬はないということ。僕は当たり前だと思うけど、大きい会社ならまた違うのだろうか。当然、期待値を超えてきてくれるようなモチベーションや仕組みを構築できるような会社づくりを僕はしていかなければならないから、その点は気をつけているんだけどね。

人材、人財、人罪、人在。表現は色々とあるが会社側に文句言ってる暇あったら、どうして評価が上がらないのか我が身を振り返ってみたほうがいいんじゃないかと思うのだった。


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