相思相愛の条件。

まだ僅かに存在しているが、ブランドが製造背景の予算を気にして発注をくれるような時代はもう、ほぼ終わった。というか、若輩者の僕が知る限りはそんな時代はなかった。

繊維における日本製のモノづくり神話は、おそらく一部の、それも幻想的なものだったと、僕自身は思う。日本のモノづくりが悪いという話ではない。それぞれの持ち場において、それぞれの技術の高みは、僕のような繊維戦士にとってはよだれがでるほど素晴らしいものだと思う。

ほんと、「誰が気づくのよそんなこと」ってくらいわからない世界で、彼らのこだわりはもう、すごい。そのクオリティを表現するために、誰も気づかないだろうこだわりが随所にある技術、こういうの、僕は興奮して目を輝かせてしまう一方で、やっぱりどこかで「誰が気づくのか」ってところが引っかかって、その素晴らしい技術を世に出したいけど出しても彼らが望むような結果は得られないだろうなと思ってしまう時が多い。


いいものを作れば誰かが取り上げてくれるのは間違いではないと思う。ただそれは、あくまでもその取り上げてくれる人にとって価値があると判断された場合のみであって、誰でも採用できるものではない。コストの折り合いだったり、納期の折り合いだったり、そもそもクオリティ自体が相手にとって不要な過剰スペックだったりと、理由はいくらでもある。


「素材に拘った」っていう切り口でいくつかのブランドの素材のお手伝いをさせてもらった経験上、結果として得られる金額的な充足、または数量的なキャパシティの確保は、作り手にとっては流した汗に対してあまりにも小さい。それはスピーカーである僕の力不足でもある。同時に、やはり、求められているかどうか、これは本当に微妙なところである。求めている人に適切に届ける力が、モノづくりの現場には圧倒的に不足していると痛感せざるを得ない。


僕自身も最近少し燻っていた。糸からビルドアップするのを得意とする生産方式を求める声が随分と薄れてきている。そういう意味で少し自分の存在価値みたいなのを問う時間が続いてた。いや実際にはありがたいことにお話はあるんだけど、商業上の都合でできないことが多い。一方で、すでにあるものとあるものを合わせてガチャポンと作り上げ、そこにブランドの冠が着くだけであっという間にすごい金額を叩き出す仕事もある。

10年前であれば、そんな現状をきっと嘆いたことだろう。あいつらは良いものをわかってないって。

でも今思えば、ありふれた素材でありふれた型で、ありふれた仕様でも、人々を魅了して消費活動を刺激し、仕入先の数字を確保してきちんと経済活動しているブランドは、モノづくり一辺倒の人間が嘆くほど残念な状態ではない。むしろ、わざわざ無理して全部盛りやり切って一個も経済寄与しなかった方が、もしかしたら罪深いのかもしれない。


で、あるならば、やはり自分たちの考える良いものとはつまり、ulcloworksの信念通り、着てくれる人が喜んで、作ってくれる人も満たされるものではないかと。作ってくれる人が満たされるとは、その生産ラインが十分に稼働して、社員の生活が守れるというのが基準で、その先に高付加価値技術の採用でより収益の向上が見込めるというのが最高水準なんだろうなと考えた時、高付加価値技術は先述の通り、相手によって必要なタイミングと数量は非常に限られていて、継続性の保証なんてそもそもない。というか、冒頭の通り、生産背景の存続を懸念して依頼者側が数字を出し続けるほど、余裕がある世の中でもないので、自社社員の生活を守る基準は他力本願ではもうダメだというのは明白だ。


冷静に考えれば、ファッションだ。表現者がそのシーズンで表現したい内容の一つにたまたま採用されるかもしれないというレベルのパズルゲームだ。自社背景の得意とするところがその相手にとって常に需要があると考えること自体、ひょっとしたらお花畑なのかもしれない。

であるならば、相手に失望するのはお門違いなので、一旦落ち着いて、現状を悲観せず、次の手を探して前に進むのみである。


相手が喉から手が出るほど欲しがるような存在になるんだ。今の現状が満たされないものであるならば、きっと誰のせいでもない、自分自身の怠慢から招いた現状だ。人のせいにせず前向いていこうぜ。っていう、自分を励ますポエム。

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