普通とは。

基準というものは、公に定められた一定の数字など、元になることをガイドとして定めていくところなのだろうから、いわゆるそういった公定のものがない場合の『普通』というのは、人それぞれの中の概念でしかないというのは、僕にとっては最近ようやくわかってきたものである。


「普通〜だ」などと人はよく言ったもので、その求められる普通というレベルがどこにあるかなどは、小学校から教科書などで習ってきた道徳だったりで学んでいることのことを指すのだろうか。

であるならば、人に迷惑をかけてはいけないよって話は親からはずっと言われ続けてきたことだろうし、学校でも習ったことでもあるだろう。そして多分それは、一般世間でいうところの『普通』の概念として間違いはなさそうに思われる、ように見える。少なくとも僕には。


じゃ、どうしたら人に迷惑がかからないか、というところを想像して行動していくというのも『普通』に求められることになるのだろうし、そういった『普通』の考え方をベースに生活している人が大半なのであろうから、大凡、人に迷惑のかかる行為を平然としてしまう人に対して向けられる世間の目というのは、逆に『普通』ではないということになり得る。


その『普通』の概念がないのがカッコイイみたいなノリの人たちもいる。そもそも『普通』って何?的な。わかる、なんかちょっと憧れる。

だけど、実際に社会に出て活動を始めると、一人では生きていけない世界がそこにはあって、ある程度その『普通』を普通に求められるものだったりもするのである。


僕はロッケンローラーになりたい少年だったので、そのいわゆる『普通』ってやつが敵だった。そういった右倣え社会迎合みたいなやつを無個性だと思ってた。

生きたいように生きるのがカッコイイっしょって、なんか突っ張ってて、めんどくせーやつだった。

ただまぁ、先にも言ったけど、社会に出ると一人では生きていけないものなので、そういうノリは早晩詰む。職種によるものだったりすると思いたい人たちもいるだろうけど、よっぽど努力の鬼でその才を突き抜かせていない限りは、俺流ってやつは早々に社会のルールでポキッとやられる。


社会が俺をワカンない、あいつらわかってないなど、自身のそれを認められない人が、わりかし大きめの子供みたいになって、社会で迷惑をかけがちなタイプのそれになる。
なんというか、僕がカッコ悪いと思ってたタイプの人たちは、社会に飲み込まれた人もいるだろうけど、社会を変えるために、熱いものをしっかりと残しつつ、ちゃんと社会と向かい合って、その一般的に求められる『普通』もわかっている人たちだった。


きっと世の中にはそのカラフルな個性を馴染ませて生きている人たちばかりだ。

そんな人たちを見てつまらないなんて誰が言えるだろうか。


尖ってるのがカッコイイのは、本当にちゃんと尖らせている人たちだけだろうし、尖って見えるけど、ちゃんと『普通』のこともできる人たちなんだと思ったっていうポエム。


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